2011年3月2日水曜日

京都鴨川沿いの庭園の素晴らしいレストラン


京都で一番の繁華街である四条河原町から3分も歩けば四条大橋である。 その下を流れるのが鴨川である。 四条河原町と鴨川の間に高瀬川が流れている。 鴨川も高瀬川も北から南へ流れている。 その高瀬川に沿っている通りが木屋町通りである。 その界隈には幕末の志士達の跋扈した跡が随所に有る。 しかし、この繁華街の様相は時間と共に変化していると言えるほどの速度で店の看板が変わっている。 所々に記念の石柱が建っている。 今ではそんな石柱の前に佇んで写真を撮ったり、石柱の文字を読んでいる人など見当たらない。
池田屋騒動之址碑、坂本竜馬・中岡慎太郎遭難之地碑や桂小五郎像などである。

その高瀬川は自然にできた河川ではない。 16世紀の中頃に生れた角倉了以(すみのくら りょうい)が私費を投じて江戸時代の初めに開削した。 現在でいえば「産業用河川」である。 それ以来、道路が整備され自動車が登場するまでは、全国から大阪に集められたコメはその高瀬川の水運を利用して京都の需要をまかなった。 
その運搬船が平底の「高瀬舟」である。 米俵を満載した高瀬舟に付けられた曳き綱を人力によって、引き上げられたのである。 森鴎外の『高瀬舟』に出てくる船である。
鴨川にかかる四条橋の上流に二条橋が有るが、その少し上流から分水させて、この高瀬川の流れとなっている。 四条河原町から川瀬川にそって木屋町通りを北上すると、二条通りの手前で急に高瀬川の流れが始まる。 

2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏が務める島津製作所の「創業記念館」の前に「がんこ高瀬川二条苑」というレストランが有る。 手ごろな値段、又は安いと言える値段で予約なしでも利用できるので便利である。 以前は「幾松」という高級料理旅館で有った。 
「幾松」の由来は越前・小浜藩士の子供として1843年に生まれ、名は松子に由来する。 松子は8歳で京都へ出て、芸妓となり、芸名は「幾松」を名乗った。 17~18才の頃、長州出身で10歳ほど年上の桂小五郎、後の木戸孝允と出会い、小五郎の愛人となり、明治になってから晴れて、木戸松子となった。
高級料亭「幾松」はかつて、山県有朋の所有で有ったことから、後の土地所有者がその芸名を利用させて頂いたということであろう。 
レストラン「かんこ」は有朋が使用していた当時の佇まいを利用して、レストランとして利用している。
部屋からの庭園の眺めは素晴らしい。 鴨川から分水された流れがこの屋敷に流れ込み、滝をなし、蛇行して高瀬川に流出するという仕組みになっている。 この屋敷の最初の住人は高瀬川を開削した角倉了以であり、山県有朋、第2代日本銀行総裁の別荘となったりしている。 第二無鄰菴だという。

京都市中京区の市立動物園の南に公開している「無鄰菴(むりんあん)」という、これまた素晴らしい庭園が有る。 明治26年ころ造園された山県有朋の別邸であり、第三無鄰菴と言われていたという。 名園師・小川治兵衛によるものであり、東山を借景として琵琶湖疏水を引き込んだ池泉廻遊式庭園であり、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものだそうだ。 庭園内には素晴らしい洋館があり、その二階は1903(明治36)年4月、総理大臣・桂太郎が外務大臣・小村寿太郎とともに元老・山県有朋と政友会総裁・伊藤博文に対露開戦の条件を説得するための「無鄰菴会議」の舞台であった。
「無鄰菴」と名付けられた山県邸は三つあり、最初の無鄰菴は山県の郷里、長州・下関の草庵である。 名前の由来はこの草菴に隣家がない事によるそうだ。
東京にある「椿山荘」は山県有朋が1978年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名したものであり、1918年(大正7年)に藤田財閥が取得して今日に至る。 ちなみに、現在の面積は2万坪である。 本来なら、これらの領域には、我々などが立ち入れないとことである。 一見の価値ある庭園である。

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