2011年2月28日月曜日

金閣寺と住職・有馬頼底


blog110228 金閣寺と住職・有馬頼底

2月の京都は一年で一番観光客が少ない。 冷え込むと底冷えのする京都となる。 しかし、今年の2月下旬の京都は桜の花こそないが、3月末の気候だった。 2月は観光客が少ないため、静寂の京都を味わうことが出来る。
しかし、金閣寺は2月といえども観光客が良く集まる寺である。 最近の高校生の修学旅行は京都に着くとクラス単位というより、三々五々の行動が多い。 やはり、一般客より中高校の制服姿の修学旅行生が多い。

10日ほど前のテレビや新聞紙上で「金閣・銀閣住職、申告漏れ」が報じられていた。 今週は各週刊誌で取り上げられている。 掛け軸や茶道具などに書いた書(しょ)であるという。 良く知られているように、宗教団体は非課税である。 但し、今回は売上金を寺の会計に入れず、個人収入としていたが、税務申告していなかったという。 2009年までの3年間で2億円の申告漏れで有ると言う。 しかし、20年前から申告していなかったというが、2006年までの物件は不問のようだ。

その人物の名前は「有馬頼底(らいてい)」である。 京都御所の北側、同志社大学の東側に構える相国寺と金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)の3寺の住職を兼ねる臨済宗相国寺派管長である。 過去に京都仏教会理事長も務めたことも有る名僧である。 
一族には競馬の「有馬記念」で有名な元農林大臣で日本中央競馬会第2代理事長であった有馬頼寧(よりやす)や直木賞作家である有馬頼義がいる。 そもそも、有馬家は旧筑後国久留米藩主の有馬家である。
兵庫県有馬市はこの有馬家に由来するそうである。

「有馬頼底は」は2003年に日本経済新聞社の「私の履歴書」で1カ月間連載されている。 小学校1年生の時に家庭の事情で大分県日田市の岳林寺に小僧として家族から断絶して、人生のスタートに就いた。 その後の苦難に打ち勝ち、京都五山の第2位に列せられる相国寺管長までになったのであるから、今回の様な氏の経歴を汚すような行為はしてほしくなかった。
2003年の「私の履歴書」で彼のファーンになって以来、京都へ旅行するたびに相国寺の境内を散策するのを常としていた。 金閣寺や銀閣寺と異なり、秋の観光シーズンですら境内に見える観光客はまばらである。 
相国寺の塔頭である瑞春院(ずいしゅんいん)は水上勉の「雁の寺」で有名でもある。
 確かに、金閣寺や銀閣寺は素晴らしい建築物である。 本来なら寺社仏閣は建築物として
 対象ではなく、宗教上の対象であったはずである。 しかし、現在では宗教上の対象とし
 の訪問者は限定的と思う。
「有馬頼底」がこんな不祥事を行わなかったら、有馬頼底の生い立ちなどを生徒に教えてか
 金閣寺や銀閣寺見物をさせてほしかったところである。

有馬頼底が小僧に出された日田市の岳林寺へ行ってみたいと思っていたが、最近は忘れていた。 
日田市はそれ以外でも幕末の「勤王の志士」の出現にも少なからずの影響を与えた広瀬淡窓が設立した私塾である咸宜園(かんぎえん)がある。 是非行ってみたいところである。 今回のニュースに接して、旅行でもしてみようかと思うこのごろである。

1 件のコメント:

  1. 実は有馬頼底氏の先祖には金閣寺を建てた足利義満の少年期に匿い育てた武将、播磨、備前守護大名赤松則祐や銀閣寺を建てた足利義政の側近で幕政を動かしてた有馬持家がいて相当縁が深くただ者でない血筋の名門出で、一族には何と宮本武蔵であり、あの黒田官兵尉が一族の可能性があり、外戚にバサラ大名佐々木道誉がいてたりと血筋は争えぬようだ。

    返信削除