2011年3月23日水曜日

京都の最新技術 日本最初の水力発電所

↑ 「南禅寺船溜」の痕跡を残している

去年の初夏にアメリカのロッキー山脈の山中に位置するコロラド州アスペンへ小旅行した。 アスペンは小さな高級リゾート地、特にスキー場では規模と言い、初級から最高級のレベルまで揃った全米第一のスキー場である。 夏は6月中旬から9月初めまで各所で音楽のイベントが有る避暑地である。 各種国際学会の開催などでも有名であり、日本にもファンが多いという。
1970年代に銀鉱山の発見で、ヨーロッパでも有名になったアメリカ第一の銀鉱山となった。 1988年になり鉱山の動力として、アメリカで最初と言える水力発電機が実用化した。
今日の「電気」時代の魁となった日本で最初の水力発電所建設が10年代に京都で計画された。 その調査のために明治22年(1888年)に27歳の青年がアスペンへ派遣された。 
今日でさえ自動車で行くにも難儀なアスペンへ、アメリカの西海岸へ鉄道が買いつ下20年後に、その沿線の駅から50Kmもあるロッキーの雪深い山中にあるアスペンへ自動車も無いその時代に2度も訪問したご苦労だけでも大変なことであったであろう。

現在、京都への観光客は年間3000万人も有り、南禅寺は人気スポットの一つであるがその近くに有る水力発電所の近辺を訪れる観光客はごくわずかである。
幕末から明治維新の経緯は省略するが、慶応4年(1868年)7月17日に「江戸」は「東京」と名称変更し、9月8日に元号が「明治」と改元された。 天皇は京都を9月20日に発ち、10月3日に東京に到着した。 年末に一度帰還(「還幸」という)し、翌、明治2年3月7日に正式に京都を発った(「車駕東幸」という)。 皇后は10月3日に京都を発った(「東啓」という)。 京都人は「遷都」とは言わなかったが公家や政府役人、御用商人に限らす多くの商人(あきんど)が東京へ移り、京都の人口は35万人から25万にと減少し、街並みの店の戸の閉まるものが多くなり、京都を「西京」とさえ言われ、かつては「天子様」を戴く京都は「地方」のイメージを帯び、街並みだけでなく京都人まで荒廃し、衰微し,沈滞してしまったという。 
桓武天皇による西暦794年の平安遷都以来、千年の都としての繁栄を続けた京都人としては、京都に都を譲った奈良の廃都の姿は見るに忍びなかったのである。

京都府の事実上の第2代知事は長州出身の槙村正直である。 同郷の木戸孝允や伊藤博文などの後ろ盾が有った。 
京都再建のために打ち出した政策は、西洋文明を取り入れた産業都市の作り替えるための産業推進政策だったが無茶苦茶なことも多く、破壊された史跡も多かったという。
会津藩出身の山本覚馬と明石博高の二人である。 教育と衰退した西陣織の再興などに努力した。
明治14年(1881年)に第3大知事は京都の北端、日本海に面した丹後出身の北垣国道であった。 かつては尊王攘夷の志士であり、維新後は九州や四国の地方行政の経験豊かであり、住民自治尊重の立場をとった。
京都には河川が少なく、地下構造により河川の水量がすくない。 徳川時代から琵琶湖の利用の開発計画がいくつも有った。 北垣知事は先に猪苗代湖から郡山への安積疏水トンネルを視察しており、京都の街中より45メートル高い琵琶湖の水を活用し、トンネルを掘り、水路を切り開き京都盆地の灌漑、製糸や機織機械その他の産業育成、更に東国のコメの集積地とする等を計画した。

東京大学の創立は明治10年であるが前身の工部大学校第5期の卒業生である幕府藩士の子供である田辺朔郎が琵琶湖疏水計画を卒業論文に取り上げていた。 京都府は22才の田辺を採用し、その論文の計画に沿う形で計画を作成し、明治政府に提出して最終的には認可を得て明治18年(1885年)8月に着工にこぎつけた。
明治21年(1888年)10月、時の京都商工会議所初代会長の高木文平と田辺朔郎は渡米し4州にわたり水力利用の現場を視察した。 アスペンでは3か月前に導入された水力発電機と出会った。 水力発電機はアメリカでもアスペン以外では1~2カ所で採用され始めたばかりであった。 

土木工事が終わって通水できたのは明治23年(1890年)4月だった。 発電機が設置されたのは京都市の南東の外れであり、南禅寺の東側である蹴上(けあげ)と言うところである。 明治24年(1891年)11月より契約工場への送電を開始し始めた。 これが日本最初の電力事業の営業であり、これが日本での電気事業の魁である。それ以降、逐次京都市の一般家庭の電灯として普及されていったのである。
京都街中から鴨川に架かる三条大橋を渡るとここが東下りの旧東海道の起点である。 そこには高山彦九郎の銅像が京都御所を向いて鎮座している。 道沿いに1.5キロメートルほど進むと私営地下鉄東西選の「蹴上駅」がある。 近くには都ホテル、ウェスティングホテルや京都市立国際交流会館等が有る。 地下鉄駅より200メートル程手前に琵琶湖疏水記念館が有る。 是非立ち寄る価値ありと思う。 

 
↑ 「インクライン」の跡

現地まで足を延ばすと理解し易いのであるが、水力発電所の産業遺跡が残されているが、それ以外では「インクライン」と呼ばれていた産業遺跡も見ることが出来る。 「インクライン」とは「傾斜面、勾配」等と言う意味であるが、その他に「軌道区間」と言う意味もある。
これは琵琶湖の大津より30トン程の荷物を乗せた小舟を疏水(水路)に浮かべ、京都の「蹴上船溜」まで運び、そこで荷物を積んだ船ごと貨車に載せる。 貨車にはロープが付き、貨車は傾斜のついたレール上を走行する。 高尾山のケーブルカーの様に中間で複線となって、上りと下りと交換できるよう市なっている。 
南禅寺よりの粟田口で荷を積んだ貨車は「南禅寺船溜」から水運で鴨川へ通じるようになっている。
ケーブルの動力も水運を利用している。
↑ 哲学の道と疏水

この水運を利用して、南禅寺の境内に水路閣が有るし、[哲学の道]に沿って流れる疏水も有る。 哲学の道に沿う疏水の流れの方向が鴨川の流れの方向と逆である理由も理解出来た。 蹴上の近くには「無鄰菴(むりんあん)」という名園が有るし、南禅寺界隈の岡崎の豪邸や名園には引水されている場合が多く、丸山公園、平安神宮や京都御所にも引水されている。 琵琶湖疏水計画が無かったならば京都の佇まいも大分異なったものであったであろう。
本件に関しては田村喜子著の『京都インクライン物語』(2002年 山海堂発行)などを参考とした。

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