↑ 群馬音楽センター 1961年建築
Blog110309建築家レイモンドと東京大空襲
成人して、会社の同僚から耳にしたことは、彼の話では1945年3月10日の「東京大空襲」の夜明け、空襲により両親や兄弟姉妹とはぐれて家族は実姉と2人となってしまった。
以来、嘗ての親子が再会することは無かったという。 その「東京大空襲」の話は悲しく、強い怒りも打ち付ける対象が無く、思い出したくもないと言う。
それ以来、私にとって「東京大空襲」が身近な関心の対象の一つに加わった。
終戦の年の3月9日の夜10時半頃、米軍機が東京の東部地区へ飛来したため、警戒警報も発令されたが、しばらくして警報は解除された。 9日も10日に日付が変更されてすぐ、「東京大空襲」が始まった。
300機近い米爆撃機B-29が再飛来して爆撃が始まった。 深川地区や浅草地区から始まり、港区等、東京区部の約3割のスペースに被害が拡大した。
火炎は火柱となり、火煙は1500メートルにも及び、爆風は秒速50メートルにも達して、暴風並みの竜巻さえ発生したという。
戦死者は約10万人、負傷者はそれに倍加していたであろう。 被災者は100万人にも及んだ。 被災家屋数は25万戸をはるかに超えたという。
戦後判明したことであるが、アメリカの日本攻撃は、南海方面から北上し、沖縄戦も直前に迫っていた。
日本本土攻撃は軍需産業の生産拠点やそれに連なる道路・鉄道などが標的であったが、1945年1月に司令官がカーチス・E・ルメイ少将に交代すると、大規模の「無差別攻撃」に切り変わり、日本国民の厭戦感情の昂揚・拡大を大きな目標とした。
従来の高高度飛行による爆弾投下では、日本上空の偏西風による命中率の悪さを改善するため、2000~2500メートルの低高度に変更して、的中率上昇に努めた。
日本人民家の消失効果を高めるため、爆発弾から焼夷弾に変更した。 アメリカ西部のユタ州の砂漠に日本家屋の街並みを造り、消失・焦土化効果の良い焼夷弾の開発を行った。
その街造りに協力したのはチェコスロバキア(現チェコ)出身の建築家・アントニン・レーモンドである。
レーモンドは1919年に、第2代帝国ホテルの建築家・フランク・ロイド・ライトの下で働くため来日した。
それらの成果が3月10日の「東京大空襲」で証明された。 沖縄戦の勝利とカーチス・ルメイ少将指揮による「東京大空襲」の次の大きな戦果はトルーマン大統領達の支持による広島・長崎への原子爆弾の投下であった。
かつてのカーチス・E・ルメイ少将は第二次世界大戦の功績により空軍中将に昇進し、空軍参謀長としてベトナム戦争を指揮し、その功績により空軍参謀総長を歴任した。
一方、日本の航空自衛隊を育成した功績により、1964年12月に航空自衛隊創立10周年を期して、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。 時の首相は佐藤栄作。 元首相・小泉純一郎の父親である小泉純也が防衛庁長官であり、参議院議員で元航空幕僚長・源田実からの強力な推薦などによるものであったという。
一方のレーモンドは帝国ホテル別館の建設後、1922年に独立し、レーモンド事務所を開設した。 日本建築界で活躍する前川國男、吉村順三などの建築家がレーモンド事務所から輩出した。
レーモンドは東京女子大総合計画を立案し、複数の講義棟、礼拝堂、講堂、宿舎等を建築している。 レーモンドが建築した宿舎で青春を過ごした多くの卒業生が宿舎の取り壊し反対に立ち上っているという記事が2~3年前に新聞にも記載された。
レーモンドは日本だけでも約50件程の建築物を残している。 東京女子大以外に聖心女子大や聖路加病院、戦後では1961年に高崎市の群馬音楽センター等の建築が有名である。
レーモンドは日米開戦の雰囲気が濃厚になると、日本国民からの嫌がらせなどで対日感情を損ねたことなどがあり、アメリカ・ユタ州の砂漠での焼夷弾開発に日本家屋の構造や配置等の情報提供に走らせたのではないかという研究も有ると言う。
昨年、『ワシントンハイツ』の著者であり、「GHQの日本占領史」研究者でもある秋尾沙戸子によると、1919年に来日した際、アメリカ陸軍から情報活動の使命を帯びていたという米国公文書がアメリカの公文書館で見つかったそうである。 NHKの『ラジオ深夜便』で平成22年12月9日で放送され、同月刊誌の2011年3月号に記載されている。
そのレイモンドが1963年、日本政府から勲三等旭日中綬章を授与されている。日本は欧米の文化人などの有名人が好きな人種なんだと思う。
これが本当であれば、教育機関、医療機関、音楽堂などの文化施設建設を生業とする文化人でもこんなものかと考えさせられる。
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