2011年3月3日木曜日

美濃の梁川星巖と幕末「攘夷派の四天王」


Blog110303 美濃の梁川星巖と幕末「攘夷派の四天王」

季節にしては陽光の強い昨秋末に岐阜県大垣市へ出かけた。 木曽三川と言われる木曽川、長良川と揖斐川の河口に近い低地帯は台風の襲来する季節となると河川の氾濫に悩まされてきた。 生活の知恵で中世に起源をもつという集落を洪水から守るために集落の周りに防水のために、「輪中(わじゅう)」と呼ぶ堤を築いた。
明治、大正、昭和と治水事業が進むと本来の使命を失い、現在は自動車道となっている。
かつての同僚のK氏が新幹線の岐阜羽島駅まで出迎えてくれて、福井県境に水源をもつ揖斐川堤を自動車で北上してゆくと、大垣市の西のはずれの曽根町に「輪中」の堤跡が残り、曽根城公園が有った。 
曽根城公園に梁川星巖と妻・紅蘭の像が建っている。 近くに華渓寺があり、境内に「梁川星巖記念館」もある。 またその一角に稲葉一鉄によって築城された曽根城本丸跡もある。 華渓寺は稲葉一鉄が母の菩提を弔うため天正4年(1576)に創建されたものである。 曽根城公園で「梁川星巖・紅蘭像」を見ていたら、観光ボランティアの野村達雄さんという方が、「梁川星巖記念館」まで案内してくれて、曽根城、星巖・紅蘭や華渓寺のことを丁寧に説明してくれた。

梁川星巖は曽根城の郷士の子として寛政元年(1789年)に生まれた。 18歳にして初めて京都へ出る。 その後、19歳にして郷士としての身分と家財を弟に譲り、江戸へ出て儒学や漢詩の修学にも励んだ。 その後も上州(群馬県)や駿河(静岡県)などを旅して帰郷し、郷里で漢詩の塾を開く。 その塾に親戚筋に有る14歳の紅蘭が入門する。 翌年、二人は結婚する。 星巖32才、紅蘭17才。
3年後、二人は長旅に出る。 その時、星巖34才、紅蘭19才。 自宅の横を流れる揖斐川を南下し、桑名へ出て、以後、奈良の月ケ瀬で梅を観る。 大和(奈良県)より大阪、岡山、尾道、広島、下関、大宰府(福岡県)、佐賀、長崎、熊本、大分と知人である漢詩人や各地方の文化人宅に寄宿しながら旅を続けた。 岡山では儒学者で有り、漢詩人でもある菅茶山(かん ちゃざん)、大分の日田では私塾・咸宜園(かんぎえん)を開いている儒学者で、教育者、漢詩人である広瀬淡窓(たんそう)に会い、日田では続いて当時でも景勝地であった耶馬渓に遊んだ。
帰りもほとんど同じルートをたどり、京都で頼山陽に会い、8年後に美濃(岐阜県)へ戻った。 帰り着いた時、星巖41才、紅蘭26才。 当時としては非常に特異な旅人であったであろう。
ほとんどが徒歩で有り、九州へ渡るには船以外に方法は無い。 旅館は長崎などごく一部で有ったようだ。
時に、あるスポンサー宅から次の旅先へ向かうときは餞別を頂戴して、それ以外に必要とした時は漢詩文を金子(きんす)に変えたのであろう。

1834年、46歳で江戸に出て、「玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)」という漢詩塾を神田に開き、約11年間活躍する。 多くの志士が門をたたいたという。 星巖より20歳ほど若い佐久間象山の私塾・「象山書院」とは隣り合っていたくらいであるから、二人の付き合いは深かったであろう。 従って勝海舟の姉は佐久間象山と夫婦であったのだから、勝海舟もお目に係れたことだろう。 江戸で、吉田松陰も40才も年上の星巖と知り合っているという。

1837年(天保8)の「大塩平八郎の乱」、1840年には中国で「アヘン戦争」は起こり、世の中は騒々しい世になって来た。 日本にも海外の開国へ圧力が加わり始めてきた。 
そんな状況の中、星巖は1849年、61歳の時に京都へ居を定めた。 尊王攘夷の風も吹き始めた。 京都の住まいは鴨川沿いの「川端丸太町」であり、三条にある2歳年上の頼山陽宅は鴨川を挟んだ、夜なら灯が見える位置だった。 星巖宅は「鴨折小隠」と言い、時の若き獅子たちの隠密に集まる場所であったと言う。
当時、星巖を筆頭に「尊攘派の四天王」と言われた池内大学(陶所=とうしょ)、梅田雲浜、頼三樹三郎その他、橋本左内、西郷隆盛、吉田松陰なども出入りしていたという。
吉田松陰が尊王攘夷に深く傾倒するきっかけは星巖に会ってからだと言う。 これは松陰の書の中に有るそうだ。
彼ら脱藩した志士達や西郷などの郷士出身の下級武士たちは「尊王攘夷」といったも、公家たちに意見具申する立場では無かった。 それに対して、星巖は漢詩や高い教養を通して広く公家たちに通じるものが有ったという。 それが志士達の寄り集まる理由だったそうである。
しかし、井伊直弼が大老になり、将軍家の継嗣問題の派閥上、反対派の徳川慶喜を推す一ツ橋派は安政の大獄で大半が処刑されている。 
星巖はこれらにかかわり、「安政の大獄」の始まる3日前にコレラで病死していた。 漢詩が優れていたので「詩上手で有ったので、死上手」と言われているという。
頼山陽の旧宅跡の住所は「京都市上京区東三本木通丸太町上ル南町」であり、「山紫水明処」という石柱が建っていたが、建物は見えない。 鴨川の河原へ回ると、今でも茅葺の小さな家が有った。 しかし、「左京区川端丸太町アル東側」の住所には梁川星巖の石柱すら見当たらなかった。 その場所は、更地になっていて、不動産屋の看板が建っていた。 近くの商店で聞いてみたが、何も知らないとのことだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿