橙色は地震約2週間後の3月24日でも冠水状態(仙台近く)
又1896年と1933年の津波でも、津波の侵入程度は今回に勝るとも劣らないのではないかと思う。 1896年の津波の遡上高さは現在の大船渡市綾里地区で有るが38.2メートルという記録が有るというが、現在の調査速報では最大遡上高さが約23メートルという。 チリ地震を除いても100年間強で3度の地震であるから、40年~50年間隔と言える。
一方、技術進歩は素晴らしい。 東京のパスコという会社が人工衛星から撮影した画像をもとに、青森県から茨城県までの沿岸で津波が流れ込んだ地域を分析した。 その結果、浸水した地域は合計で約470平方キロメートル余り(シンガポール国土の50%)で、東京のJR山手線の内側の面積(63平方キロメートル)の約7倍にあたることが分かった。 県別では、宮城県がおよそ300平方キロメートルで最も広く、次いで福島県がおよそ110平方キロメートル、岩手県がおよそ50平方キロメートルなどと、いずれも広い範囲に及んでいる。
また、24日に新たに撮影された宮城県南部の画像を分析したところ、大津波の直後に比べて浸水の範囲は狭くなってはいるが、依然として約70%程度の地域で水が引いていないことが分かった。 これは、巨大地震に伴って広い範囲で地盤が約1メートル沈下しているためとみられえいる。
従って、今後の復旧作業や土地利用などに大きな影響を及ぼすことが懸念されるであろう。
1864(安政元)年に横浜を開港した時の人口は約100人の漁村だったという。 私見だが、江戸時代末期まで、海辺には人はそれほど住んでいなかったのではなかろうか。 漁船もそれほど大きくなく、小舟であり、輸送設備や保存技術も乏しい時代は収穫物の魚も地元で食する物が大半では無かったと思う。 人口の増加と共に、入り江に住みつき、職業としての漁民が漁業を定着化したように思う。
日本の人口は明治5年で約3500万人、明治30年は約4000万人であり、現在の3分の1である。
1896年の死者・行方不明者数は約2万2000人、今回が約3万人とすると、今回の比率の方が低い。
前者の地震発生時刻は午後7時半頃であり、今回は午後2時半過ぎである。 防災施設や避難訓練などの効果の影響かもしれない。
今回の津波の怖さは体験者自身、又その他はテレビ映像などで充分理解できたはずである。
又、防波堤やコンクリートの家屋でも今回レベルの地震による津波には無力であることが証明された。
地盤移動による地盤沈下の回復は望みえないと思う。 仮に埋め立て、健箇な防波堤を構築しても、50年前後で繰り返される可能性のある地震による津波で同じような運命をたどる可能性は否定できないかもしれない。
1970(明治3)年生まれの今野明恒は東京帝国大学を卒業し、帝大の助教授であった1905年に、今後50年以内に東京で大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事を雑誌に寄稿した。 この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になり、上司であった大森房吉教授等から世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された。
しかし1923(大正12)年に関東大震災が発生し、今村の警告は現実のものとなってしまった。 この被害に付いては省略する。
赤色は標高10メートル以下の仙台平野
続いて、1946(昭和21)年12月21日の午前4時頃に南海地震が発生した。 その直後に発生した津波によって、和歌山県から高知県にかけての太平洋岸で1500人近い死者・行方不明者や家屋の破壊など多くの被害を伴った。
最初に記した1933(昭和8)年に三陸沖地震が発生した際に、地震の大学者・今村明恒その復興の際に津波被害を防ぐため、住民の高所移転を提案した。 しかし、国内での実現例は少なかったように思う。
3月26日、戸田公明・岩手県大船渡知事は津波で甚大な悲劇があった低地帯の木造住宅を、高台に移す意向を表明した。 また支援を菅直人首相に電話会談で支援を求めたという。
同じく同県の山田町の沼崎喜一町長も同様の趣旨で菅首相と電話会談をしたという。
地震は人力で防げるものではない。 しかし、人間の英知と努力によって津波の悲劇は最小限に抑えることは出来ると思う。 私の高所移転案に関しては改めて検討してみたい。
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