2011年3月30日水曜日

3月27日「脱原発」  ドイツ人の選択


327日に行われたドイツの地方選挙でメルケル連立与党であるキリスト教民主同盟(CDU)と自由民主党(FDP)は暫定公式発表で計44.3%、対する野党であった緑の党と社会民主党(SPD)の計47.3%で58年ぶりの敗退である。 「脱原発」を主張する緑の党の得票は前回の約2倍の得票で24.2%となり、州の首相を担当することとなった。

私は約25年前、仕事で3年間ドイツに滞在した。 ドイツは日本やイギリス、フランスの様な一極集中都市を持つ国ではなく、都市分散の国である。家族を日本人企業の多いデュッセルドルフに於いて、400キロメートル南に位置する人口約60万人のシュツットガルトに駐在した。 シュツットガルトは大変美しい都市である。 高級車ベンツやスポーツカー・ポルシェの本社があり、精密機械工業の中心地である。 文学者シラーや哲学者ヘーゲルなど文化や芸術の薫り高い地である。
今回の選挙が有ったのはシュツットガルトを州都とするイツ南西部にある人口約1000万人のバーデン・ビュルテンベルク州である。 州の南には東西100キロメートル、南北200キロメートルの「黒い森」が広がり、その南がスイスに接している。 その「黒い森」の中には現代の夢の国の様な人口20万人を超えるフライブルグという小さな都市が有る。 市内の中心部はガソリンエンジンの自動車の乗り入れは認めず、全て電気自動車に乗り換えなければならない。 現在は小学校からヨーロッパだけでなく、世界中の自治体などから毎日見学者が絶えないという。 現在、脚光を浴びている環境都市の模範であるという。
この様な州であるから、環境的に不安定な文明は容認できない州民である。 このような素晴らしい大地に生きることこそ人間の理想であり、権利であると思っている。 若い人々がよりそのような環境を望んでいる。

先に述べた東西100キロメートル、南北200キロメートルの「黒い森」はドイツの産業革命後、樹木を伐採してエネルギーとした。 森林は死んだ。 州民は植林をして「黒い森」を蘇らせた。 「黒い森」を2度と殺さぬようにルールを作った。 
ヨーロッパ・アルプスを水源としてライン川はスイスで水量を増して、ドイツとフランスの国境を流れてオランダを介して大西洋に注いでいる。 第二次大戦後のスイス、ドイツ、フランスの産業の拡大と共に工業用水の汚染や人口増加による生活用水の悪化などでライン川の魚や生物が絶滅の瀬戸際まで追いつめられた。
ライン川を水域とする住民は汚染防止の対策を立て、現在は清らかな流れには多くの魚や生物が蘇った。
ドイツには、ヨーロッパにはこのような歴史によって、良い環境が人間の住む、生きるための当然の権利であり、義務であることを一人一人が良く理解している。

このような背景が有って初めて、今回の選挙結果となったのであると思う。 このブログの322日にドイツの原発問題を載せているが、月刊誌『世界』の今年の1月号に梶村太一郎氏がドイツの原発問題を掲載しているが、2000年に時の政権が2022年までに原発を停止して、廃炉化することを決めた。 2009年の選挙で誕生したメルケル率いるキリスト教民主同盟(CDU)と自由民主党(FDP)の連合政権は充分の議論を経ずして原子炉の寿命を32年間から12年間延長し、寿命を44年間としたことに対しての信任を問う選挙背有ったのである。 何の技術的検証もせず、国会議員の多数決で決めた政治手段を容認しなかったのである。 
これがドイツ人の国民性である。 今回、同日に選挙の有ったドイツ中西部に位置するラインラント・プファルツ州議会選挙も同じ結果が出た。 昨年(2010)5月に選挙が有った、やはりドイツ中西部のドイツ最大州のノルトライン・ウェストファーレン(NRW)州議会選挙でも敗北している。 従って、2009年成立したメルケル政権は3連敗である。 全て争点はメルケル政権の原発寿命の延長策に対する信任拒否であった。
ドイツの下院(日本の衆議院に相当)はメルケル連立与党が優勢であるが、日本の参議院に相当する上議院は野党の民主党と緑の党が優勢であったが、今回の選挙で優位性は更に高まったことになった。
日本の東電・福島原発の放射線漏洩事故は多少の追い風となったかもしれないが、基本的にはドイツ人の「脱原発」の選択の結果であると思う。

2011年3月28日月曜日

繰り返す地震と津波から何を学ぶか(1)

冠水した状態が続く農地 (3月23日現在)


吉村昭の『三陸海岸大津波』は未だ読んでいないが、今回の地震による津波に伴って三陸地方の大きな津波被害の歴史が報じられている。 古くは西暦869年の「貞観(じょうかん)津波」、1500年頃の巨大津波、1896(明治29)年の「明治三陸地震」、1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」、1960年の「チリ地震」等が有る。
 
橙色は地震約2週間後の3月24日でも冠水状態(仙台近く)

1500年頃の地震では標高約15メートルの鎌倉の大仏の大仏殿が津波で破壊されているという。 この地震では関東より東北南部(現在の宮城県)の方が被害は大きかったという。 868年と1500年頃の津波では仙台平野の内陸部数キロまで考古学的手法で痕跡が確認されている。 
1896年と1933年の津波でも、津波の侵入程度は今回に勝るとも劣らないのではないかと思う。 1896年の津波の遡上高さは現在の大船渡市綾里地区で有るが38.2メートルという記録が有るというが、現在の調査速報では最大遡上高さが約23メートルという。 チリ地震を除いても100年間強で3度の地震であるから、40年~50年間隔と言える。

一方、技術進歩は素晴らしい。 東京のパスコという会社が人工衛星から撮影した画像をもとに、青森県から茨城県までの沿岸で津波が流れ込んだ地域を分析した。 その結果、浸水した地域は合計で約470平方キロメートル余り(シンガポール国土の50)で、東京のJR山手線の内側の面積(63平方キロメートル)の約7倍にあたることが分かった。 県別では、宮城県がおよそ300平方キロメートルで最も広く、次いで福島県がおよそ110平方キロメートル、岩手県がおよそ50平方キロメートルなどと、いずれも広い範囲に及んでいる。
また、24日に新たに撮影された宮城県南部の画像を分析したところ、大津波の直後に比べて浸水の範囲は狭くなってはいるが、依然として約70%程度の地域で水が引いていないことが分かった。 これは、巨大地震に伴って広い範囲で地盤が約1メートル沈下しているためとみられえいる。 
従って、今後の復旧作業や土地利用などに大きな影響を及ぼすことが懸念されるであろう。

1864(安政元)年に横浜を開港した時の人口は約100人の漁村だったという。 私見だが、江戸時代末期まで、海辺には人はそれほど住んでいなかったのではなかろうか。 漁船もそれほど大きくなく、小舟であり、輸送設備や保存技術も乏しい時代は収穫物の魚も地元で食する物が大半では無かったと思う。 人口の増加と共に、入り江に住みつき、職業としての漁民が漁業を定着化したように思う。
日本の人口は明治5年で約3500万人、明治30年は約4000万人であり、現在の3分の1である。
1896年の死者・行方不明者数は約22000人、今回が約3万人とすると、今回の比率の方が低い。
前者の地震発生時刻は午後7時半頃であり、今回は午後2時半過ぎである。 防災施設や避難訓練などの効果の影響かもしれない。
今回の津波の怖さは体験者自身、又その他はテレビ映像などで充分理解できたはずである。
又、防波堤やコンクリートの家屋でも今回レベルの地震による津波には無力であることが証明された。
地盤移動による地盤沈下の回復は望みえないと思う。 仮に埋め立て、健箇な防波堤を構築しても、50年前後で繰り返される可能性のある地震による津波で同じような運命をたどる可能性は否定できないかもしれない。

1970(明治3)年生まれの今野明恒は東京帝国大学を卒業し、帝大の助教授であった1905年に、今後50年以内に東京で大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事を雑誌に寄稿した。 この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になり、上司であった大森房吉教授等から世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された。 
しかし1923(大正12)年に関東大震災が発生し、今村の警告は現実のものとなってしまった。 この被害に付いては省略する。


 
赤色は標高10メートル以下の仙台平野

今村は1928(昭和3)年、和歌山県に私費で研究所を設立した。 又、今村の予想通り1944(昭和19)127日午後1時半頃に東南海地震が発生し、静岡県、愛知県、三重県の太平洋岸にかけて約1230名の死者・行方不明者と家屋破壊など多くの被害が出た。 しかし、太平洋中で有った為、この事実は軍部により敗戦後まで情報管理されて極秘とされていた。 米軍は空中より被害状況を撮影していた。 私の小学校時代の友達はこの地震で負傷していたと最近伺った。
続いて、1946(昭和21)1221日の午前4時頃に南海地震が発生した。 その直後に発生した津波によって、和歌山県から高知県にかけての太平洋岸で1500人近い死者・行方不明者や家屋の破壊など多くの被害を伴った。

最初に記した1933(昭和8)年に三陸沖地震が発生した際に、地震の大学者・今村明恒その復興の際に津波被害を防ぐため、住民の高所移転を提案した。 しかし、国内での実現例は少なかったように思う。
326日、戸田公明・岩手県大船渡知事は津波で甚大な悲劇があった低地帯の木造住宅を、高台に移す意向を表明した。 また支援を菅直人首相に電話会談で支援を求めたという。
同じく同県の山田町の沼崎喜一町長も同様の趣旨で菅首相と電話会談をしたという。
地震は人力で防げるものではない。 しかし、人間の英知と努力によって津波の悲劇は最小限に抑えることは出来ると思う。 私の高所移転案に関しては改めて検討してみたい。

2011年3月27日日曜日

日本の原発研究者や地震学者達の気持

                 被災後の東京電力・福島第一発電所

325日の朝日新聞に次の様な記事が有った。 日本原子力研究所(現・原子力研究機構)で研究室長などを務めた笹井篤氏(81)は「原子力には、核兵器や事故災害という負の部分が常につきまとう。 原子力の技術は我々の世代から次の世代に引き継げたと思うが、負の部分への思考を引き継げなかったのではないのではないか」という。 
若い世代と話すと、「原発事故は起こらないという神話を、本当に信じている」ようだという。
笹井氏は日本で最初の原子炉が稼働した2年後の1959年に研究所へ入った。 国際原子力機関(IAEA)の安全性検討委員などを務め、ソ連のチェルノブイリ原発事故の現地調査にも何度も行ったそうである。

今回の福島第一原発のトラブルに関して、東電などの情報開示にも疑問を持っている。 トラブルの程度や放射線の拡がりを正確に把握することに役立つデータが出てきていないという。 「原発周辺には、電源を使わなくても作動する放射線測定機を設置することが義務付けられており、事故後からの積算の放射線量が判る。 非常時にはこのデータを回収することがマニュアルになっているのに、公表されていない」。 また、地震で原発が非常停止する前に原子燃料がどれだけ燃えていたのかを示すデータも出ていないと指摘しているとうい。

      ↑ 25日に厚生労働省から指摘されても宮崎、宮城県はデータがない

公表されていないと思われる「データ」とは県別のグラフなのだろうか。 
朝日新聞27日朝刊紙上の「27日の都道県別の大気中放射線の値」表では福島県と宮城県のデータは白紙で有った。 元ネタはWeb上で探した下記の文科省のデータであろうと思う。 やはり、福島県と宮城県のデータは白紙で有った。 福島県は測定機の電源が云々ということもあろうが、宮城県の理由は解らない。 女川原子力発電所との関係でもあるのだろうか。


           ↑ Web上のテータ  宮城県と福島県は測定値がない。      


他の一人は三菱重工業で福島第一原発とは異なるタイプの原子炉の建設や運営に携わって来た柘植綾夫・芝浦工業大学長(67)は「創成期から原子力開発に携わった研究者として、責任を感じる」という。 また、「東電が福島原発で想定したマグニチュードはM7.9であるのに、M9.0の地震に耐えて原子炉が自動停止した点では技術者として誇っていいと思う」としたうえで、「想定以上の地震と津波だった。想定以上のことが起きたことは、設計側としての責任を追及されても仕方がない」という。 そのうえで、「原発は自動停止した後も、冷却を続けなければならない。 その時に外部電源がダメになっても、ディーゼル発電で補うという設計で安全への多重性を保っていた。 この多重性が損なわれたことは『想定外』だった」と反省している。

しかし、福島原発の現在の状況を考えると許されることではないと思う。 古文書によると、9世紀(869年)に「貞観(じょうかん)津波」が有って、千人以上の死者が有ったという記録が残っているという。 仙台平野の内陸部数キロまで津波が運んだ泥が残っているのが見つかったそうである。 
福島第一原発の設計当時、この津波の実績は判っていなかった。 その後、東北電力の調査で、仙台平野の
海岸線から約3キロ地点で波高さ3メートル有ったことが分かり、1990年に報告されたという。
1500年頃に東北から関東を巨大津波が襲った痕跡を産業総合研究所が見つけたという。 この地震のことはこのブログで3月12日に載せている。 鎌倉の大仏の話である。
 
名古屋大学の鈴木康弘教授(活断層学)は今回の東北関東大震災はけして『想定外』では無いとう。 石橋克彦神戸大名誉教授(地震学)は97年に今回の事態を予見したような論文を発表し、地震の被害と、放射線汚染が広域に拡がり、救済が妨げられる事態を「原発震災」と名付け、警鐘を鳴らしてきたという。 福島第一原発は今回の地震の原因とされる「プレート境界」が有ると知られていなかった40年以上前の設計である。
石橋氏は古い原発の耐震性の見直し、新設の原発の耐震指針の見直しを90年代から主張してきたが、産業界や政府の腰が重く、耐震指針が全面改定になったのは2006年だったという。 それから新指針に照らして、既存の原発の再チェックが始まったが、「津波」より「揺れ」に対する検討が優先され、作業中に今回の「原発震災」に遭遇したという何ともお粗末な『大人災』ということになってしまったのであるという。

2011年3月24日木曜日

犯罪者用GPS監視装置

アメリカで挑戦中の女優・田村英里子
                                                  
3月初めの朝日新聞に日本であまり話題にならないと思う記事が有った。 宮城県の村井嘉浩知事が県内の性犯罪者の前歴者らにGPS(全地球測位システム)所持を義務付ける条例を検討している。 ついては今月下旬から有識者らによる懇談会の意見を聞き、条例化の最終判断をする予定であるという。 今回の大地震発生で計画はどうなるのであろうか。
大阪府の橋本知事もこの再犯防止システムの導入検討を3月初めに発言している。 法務省も2009年5月に海外の事例研究を開始すると発表している。 

再犯防止のため、このGPS(全地球測位システム)システムを執行猶予期間中や仮釈放期間中、又は懲役刑の終了者も対象に取り外せないように足などに装着して24時間監視するシステムである。 これは性犯罪に限らず、統計的に見て再犯率の高いケースが対象になるものと思う。
それに対して、東京弁護士会の約20名と共に韓国へ同行した記者の調査報告である。 韓国では1998年から検討し、2008年から実施しているという。
韓国の状況についての内容については省略するが、気になる記事は日本の弁護士会の意見は「24時間監視は抵抗感を感じる」という意見と、韓国では検討から実施まで10年かかったという情報をつかんだということである。
既に判決が決まり、懲役刑の人に対する対象については問題であろうとは思うが、被害者やその恐れのある立場の人達にとっては24時間監視して欲しいであろうし、10年なんて後に再犯防止の効果なんて理解できないものと思う。

世の中にこの様なものが有るのだと知ったのは息子のドイツの中学校の友達で田村英里子がいた。 彼女は2年前に文藝春秋社から『ハリウッド・ドリーム』と言う本を出版した。
約20年前のことであるが、帰国の翌年の1989年、映画と歌手で同時デビューし、16歳で第31回日本レコード大賞新人賞を受賞した。 
2000年に単身アメリカの西海岸へ渡り、コネなしでハリウッドに挑戦した。 その甲斐あって2007年にはアメリカ全土で放映された人気番組『HEROES/ヒーローズ』シーズン2、2009年『ドラゴンボール エボリューション』と共に主役に選ばれているという。
上記の著書の中に監視用GPS(全地球測位システム)の記事が有ったので、それ以来、再犯防止には良いのではないかと思っていた。
その本によると、アメリカの民間アパートには「ルームメイト」と言うシステムが有り、賃借料の易い所では同じフロアーには共同使用のものが有るのではないかと推定できる。 彼女が未だ悪戦苦闘中に借りたアパートにいた男性はやはり俳優志望で有ったが、有る時半開きになっている男性の部屋のドアーの隙間から、片隅で点滅する赤いランプを見たという。 疑問に思って、その後その男性を観察していると、男性の片足の足首に錠が掛けられていたという。 いつもは裾の長いパンツで隠れているので気がつかなかったが、偶然に裾がまくれていてその部分が見えたのだと言う。 
彼女は恐ろしかったが、思い切ってその理由を聞いてみたところ、答えは「ハウス・アレスト」、つまり、法を犯し、自宅禁錮処分中で有ることを自白したそうである。
足首の物は一種のGPS(全地球測位システム)であり、部屋のランプと連動しており、当局が常時彼の居場所を把握できるようにしているのだそうである。 恐ろしさの余り、すぐに部屋を見付け逃げ出したという。

 
犯罪防止監視者に装着するGPS機器

米国は1980年代から再犯防止策を採用し、90年代からGPSシステムを導入した。
運営の仕方は州によって異なるが、ペリディアン社の『ベリトラック(VeriTracks)』と言う独特なシステムを採用している。 このシステムは犯罪者に米プロ・テック・モニタリング社製の携帯電話サイズのGPS受信機をベルトに、電子アンクレットを足首に装着させる。 この2つの装置が36メートル以上離れると保安官事務所に警報が鳴るようになっている。 
米国の場合、刑務所の受刑者数は約200万人以上であり、刑務所収監者、拘束収容者・保護観察者・仮出所者数等の総数は約700万人であり、人口の2%を超える。 収容場所が足らないし、経費削減のためにはGPSを導入せざるを得ない。
海外の導入国は米、英、仏、独、カナダ、スウェーデン、韓国などである。

2011年3月23日水曜日

京都の最新技術 日本最初の水力発電所

↑ 「南禅寺船溜」の痕跡を残している

去年の初夏にアメリカのロッキー山脈の山中に位置するコロラド州アスペンへ小旅行した。 アスペンは小さな高級リゾート地、特にスキー場では規模と言い、初級から最高級のレベルまで揃った全米第一のスキー場である。 夏は6月中旬から9月初めまで各所で音楽のイベントが有る避暑地である。 各種国際学会の開催などでも有名であり、日本にもファンが多いという。
1970年代に銀鉱山の発見で、ヨーロッパでも有名になったアメリカ第一の銀鉱山となった。 1988年になり鉱山の動力として、アメリカで最初と言える水力発電機が実用化した。
今日の「電気」時代の魁となった日本で最初の水力発電所建設が10年代に京都で計画された。 その調査のために明治22年(1888年)に27歳の青年がアスペンへ派遣された。 
今日でさえ自動車で行くにも難儀なアスペンへ、アメリカの西海岸へ鉄道が買いつ下20年後に、その沿線の駅から50Kmもあるロッキーの雪深い山中にあるアスペンへ自動車も無いその時代に2度も訪問したご苦労だけでも大変なことであったであろう。

現在、京都への観光客は年間3000万人も有り、南禅寺は人気スポットの一つであるがその近くに有る水力発電所の近辺を訪れる観光客はごくわずかである。
幕末から明治維新の経緯は省略するが、慶応4年(1868年)7月17日に「江戸」は「東京」と名称変更し、9月8日に元号が「明治」と改元された。 天皇は京都を9月20日に発ち、10月3日に東京に到着した。 年末に一度帰還(「還幸」という)し、翌、明治2年3月7日に正式に京都を発った(「車駕東幸」という)。 皇后は10月3日に京都を発った(「東啓」という)。 京都人は「遷都」とは言わなかったが公家や政府役人、御用商人に限らす多くの商人(あきんど)が東京へ移り、京都の人口は35万人から25万にと減少し、街並みの店の戸の閉まるものが多くなり、京都を「西京」とさえ言われ、かつては「天子様」を戴く京都は「地方」のイメージを帯び、街並みだけでなく京都人まで荒廃し、衰微し,沈滞してしまったという。 
桓武天皇による西暦794年の平安遷都以来、千年の都としての繁栄を続けた京都人としては、京都に都を譲った奈良の廃都の姿は見るに忍びなかったのである。

京都府の事実上の第2代知事は長州出身の槙村正直である。 同郷の木戸孝允や伊藤博文などの後ろ盾が有った。 
京都再建のために打ち出した政策は、西洋文明を取り入れた産業都市の作り替えるための産業推進政策だったが無茶苦茶なことも多く、破壊された史跡も多かったという。
会津藩出身の山本覚馬と明石博高の二人である。 教育と衰退した西陣織の再興などに努力した。
明治14年(1881年)に第3大知事は京都の北端、日本海に面した丹後出身の北垣国道であった。 かつては尊王攘夷の志士であり、維新後は九州や四国の地方行政の経験豊かであり、住民自治尊重の立場をとった。
京都には河川が少なく、地下構造により河川の水量がすくない。 徳川時代から琵琶湖の利用の開発計画がいくつも有った。 北垣知事は先に猪苗代湖から郡山への安積疏水トンネルを視察しており、京都の街中より45メートル高い琵琶湖の水を活用し、トンネルを掘り、水路を切り開き京都盆地の灌漑、製糸や機織機械その他の産業育成、更に東国のコメの集積地とする等を計画した。

東京大学の創立は明治10年であるが前身の工部大学校第5期の卒業生である幕府藩士の子供である田辺朔郎が琵琶湖疏水計画を卒業論文に取り上げていた。 京都府は22才の田辺を採用し、その論文の計画に沿う形で計画を作成し、明治政府に提出して最終的には認可を得て明治18年(1885年)8月に着工にこぎつけた。
明治21年(1888年)10月、時の京都商工会議所初代会長の高木文平と田辺朔郎は渡米し4州にわたり水力利用の現場を視察した。 アスペンでは3か月前に導入された水力発電機と出会った。 水力発電機はアメリカでもアスペン以外では1~2カ所で採用され始めたばかりであった。 

土木工事が終わって通水できたのは明治23年(1890年)4月だった。 発電機が設置されたのは京都市の南東の外れであり、南禅寺の東側である蹴上(けあげ)と言うところである。 明治24年(1891年)11月より契約工場への送電を開始し始めた。 これが日本最初の電力事業の営業であり、これが日本での電気事業の魁である。それ以降、逐次京都市の一般家庭の電灯として普及されていったのである。
京都街中から鴨川に架かる三条大橋を渡るとここが東下りの旧東海道の起点である。 そこには高山彦九郎の銅像が京都御所を向いて鎮座している。 道沿いに1.5キロメートルほど進むと私営地下鉄東西選の「蹴上駅」がある。 近くには都ホテル、ウェスティングホテルや京都市立国際交流会館等が有る。 地下鉄駅より200メートル程手前に琵琶湖疏水記念館が有る。 是非立ち寄る価値ありと思う。 

 
↑ 「インクライン」の跡

現地まで足を延ばすと理解し易いのであるが、水力発電所の産業遺跡が残されているが、それ以外では「インクライン」と呼ばれていた産業遺跡も見ることが出来る。 「インクライン」とは「傾斜面、勾配」等と言う意味であるが、その他に「軌道区間」と言う意味もある。
これは琵琶湖の大津より30トン程の荷物を乗せた小舟を疏水(水路)に浮かべ、京都の「蹴上船溜」まで運び、そこで荷物を積んだ船ごと貨車に載せる。 貨車にはロープが付き、貨車は傾斜のついたレール上を走行する。 高尾山のケーブルカーの様に中間で複線となって、上りと下りと交換できるよう市なっている。 
南禅寺よりの粟田口で荷を積んだ貨車は「南禅寺船溜」から水運で鴨川へ通じるようになっている。
ケーブルの動力も水運を利用している。
↑ 哲学の道と疏水

この水運を利用して、南禅寺の境内に水路閣が有るし、[哲学の道]に沿って流れる疏水も有る。 哲学の道に沿う疏水の流れの方向が鴨川の流れの方向と逆である理由も理解出来た。 蹴上の近くには「無鄰菴(むりんあん)」という名園が有るし、南禅寺界隈の岡崎の豪邸や名園には引水されている場合が多く、丸山公園、平安神宮や京都御所にも引水されている。 琵琶湖疏水計画が無かったならば京都の佇まいも大分異なったものであったであろう。
本件に関しては田村喜子著の『京都インクライン物語』(2002年 山海堂発行)などを参考とした。

2011年3月22日火曜日

東電福島原発の動向とドイツの原発

                              ↑ ドイツの原子力発電所の立地条件は海岸だけではない

東北関東大震災による死傷者数は日毎に数百人の規模で増加しているが、地元の人達や自衛隊、ボランティアの努力にも拘らず津波による家屋や漁船などの残渣の片づけははかばかしく進まない。 
一方、東電の福島第一発電所の状況も東電や消防、警察、自衛隊などの決死に近い努力によって一進一退では有るが、ここ一二日は光明も期待されるように思われるが、決して予断を許される状態ではない。 
チェルノブイリ原発事故の時の欧州諸国の様な定量的情報提供が無いものだから、技術立国日本にしては風評が先行して国民に動揺を来している様な気がする。 アメリカからの海軍や原子力の専門家の派遣も始まったようであるが、一方では日本に滞在している自国民の日本脱出に取り組んでいる。 これは他の外国諸国も同様な処置に出ている。 

世界の主要課題の「脱化石エネルギー」の対策として注視されている「原子力発電」が世界各国の関心を集めている折であるので、東京電力福島原子力発電所の今回の事故は世界各国の注目を集めている。 特にドイツ政府及び国民の関心は強い。 ドイツは先進国や新興国を含めて「脱原発宣言」を行っている唯一の国家である。
メルケル首相は事故3日後の314日には国内17基の原発中、1980年前に稼働した7基の運転を3カ月間停止し、総点検を指示している。 ドイツにはそれなりの理由が有るようだ。
月刊誌『世界』2011年1月号の梶村太一郎のドイツの原子力発電問題の記事によると、2000年6月に時の政権・社会民主党(SPD)のシュレーダー前首相は緑の党と「脱原発」で合意した。 
原発法案では原発の許容発電年は32年間の稼働とし、法律に基づいて32年間の稼働を終えた3基が廃炉になっている。 2022年までに原発を廃止し、電力の80%は風力及び太陽光電力などの再生可能電力に転換し、20%は現在も使用している石炭に依存するという。 
一方、東ドイツはバルト海のルプミン海岸に1974年から89年までに建設して稼働していた5基のソ連型原子炉が稼働し、東ドイツの電力の約10%を賄っていた。
1989年の東西間の壁崩壊後の東西ドイツ統合により、5基の原発は停止後、廃炉とした。 また、建設中の3基の原発は建設中断、廃炉して跡地は緑の野原として原状回復させた。 但し、ほぼ完成していた6号炉は原子燃料挿入前の汚染されていない状態で有ったので記念として残し、公開しているという。

ところが、2009年9月の総選挙で党首メルケルのキリスト教民主・社会同盟(CDU)と自由民主党(FDR)は「原発は再生エネルギーが核エネルギーにとって代わるまでのつなぎ(橋渡し)技術とし、厳格な安全基準を護り、原発の稼働期間延長を行い、それに基づく事業主は収益の一部を再生エネルギーに投資する」ことを連立協定として、総選挙の争点として政権を獲得した。
その直後の9月28日の下院に上程し、戦後ドイツ議会史では例外的に激しい議論の応酬の末、10月28日の本会議で可決した。 この採決に対して与党の20人程が投票に参加していないし、与党出身の衆議院議長は審議が充分でないとの理由で白票を投じている。
その議案の主旨は17基中の古い8基は8年間の延長、残り9基は14年間の延長であり、平均で12年の延長である。 原発稼働は2037年までである。  
政府与党は上院の承認は必要ないという。 これに対して、与党出身の衆議院議長は異を唱えている。 ただし、下院(衆議院)では通過したが、野党勢力の大きい上院(参議院)では審議していないという。 ドイツでも上下院のねじれ現象が発生している。 最終的には承認には大統領の承認が必要であるが、2011年1月時点では署名はされていないという。 大統領の署名がなされたとしても、憲法裁判所の判断がどうなるか予断は出来ないという。 ドイツでは日本の原子力発電所事故の問題が日本以上に気になっていることであろうと思われる。

それにしても今回の福島第一原子力発電所の第1号機は1971年の営業開始であるから、メルケル首相以前のドイツであるなら、32年間の稼働年であるから8年前に廃炉になっている運命であった。 第一発電所の6基は全て1979年以前の営業開始であるから、ドイツなら全て廃炉の運命である。 これが技術立国日本と同じ技術立国日本の差である。 
今回の原子力発電の問題とは別であるが、私の驚くことは、上に掲げた月刊誌『世界』の記事を書いた記者の梶村太一郎氏は1964年生まれのフリージャーナリストであり、1974年以来ベルリン在住で、ドイツ外国人記者協会会員ではあるが、記事によるとドイツの衆議院議長と単独会談を行い、今回の情報収集を行っている。 日本では考えられないことである。 いかに情報公開が行われているかということを知った。 ほかのレポートにもこれに似たことが報じられている。

2011年3月18日金曜日

なぜホバークラフトをもっと早期に投入しないのか

                                               ↑ ホバークラフト (上陸用舟艇)
B110317なぜホバークラフトを投入しないのか

今日の情報で上陸用舟艇(ホバークラフト)の投入が報道された。
今回のホバークラフトの出動は余震の深度の大きさや頻度が減衰したためとは思えない。 
房総半島の沖合に待機していて、余震の心配がなくなったからといって7日目に出動したとは思えない。 何か思惑があったのではないかと思う。

東北関東大震災が発生してから7日目に入った。 日を経るごとに死者数、行方不明者数、避難者数の数値は増加してゆく。 特に避難者の物的不足、入手難や通信難や衛生、耐寒対策などへの不満は日ましに増してはいるが、なかなか解消しないことに忍耐力も限界に近いであろう。 更に原発問題に対する不安は東北地方のみならず、関東地方へも広がっている。 外国政府は日本に滞在する自国民に対して特別機を用意して日本脱出に本格的に取り組んでいる。
主に津波によって遭難した人達の生存可否の情報は殆ど報道されなくなってしまった。

太平洋戦争において、アメリカ軍はグアム島、硫黄島や沖縄などの上陸作戦として、手にてに小銃を持った米兵達が上陸用舟艇より上陸してきた映像は脳裏に深く残っている。 
今回の地震の特徴は震度が大きいこと、広範囲であること、大きな余震が繰り返し襲ってくること以上に津波による被害の大きさである。 これらの情報がTVや新聞などで繰り返し報道されている。 しかし、特に高速道路の不通は報道されているが、国道や県道などの状況の詳細は殆ど報道されていない。 これが救援物資の輸送を非効率にしていないだろうか。

津波によって遭難した人達の救援。 東北のリアス式海岸に点在する港町は海岸線を走る細い自動車道で連なっていた。 その道路が津波によって殆ど分断された状態である。 津波によって港町は殆ど破壊されてしまった。 やっとのことで高台に逃れた数少ない人達は孤立してしまっていたと思う。 
津波によって遭難してしまった人達の捜索と孤立している難民の救済に最適なのが上陸用舟艇(ホバークラフト)であったと思う。 どうして政府はこれを早期に投入しなかったのか。
地方自治体もどうして要求しなかったのか。 マスコミはどうして投入を主張しなかったのか。
早期に投入していれば津波による遭難者も各地に孤立していた生存者も早期に救済されていたであろう。
救済を求めて、寒さと空腹と、はぐれてしまった肉親や隣人・友人の消息も把握出来たであろう。

道路網や鉄道が不通の間にも上陸用舟艇(ホバークラフト)によって目的地の近くに救援物資をもっと早く届けられたであろう。 津波で通行不能になった道路の整備は港湾や海岸からも整備用機器や要員を陸揚げできたであろう。

アメリカは主に沖縄に上陸用舟艇を相当量保有していたと思う。 アメリカに早く、強く、繰り返し要請すべきだった。自衛隊にも数艘は所有していたはずである。
上陸用舟艇は50トンの搭載力が有ると言う。 沖の主艦から上陸用舟艇が目的地との間をピストン輸送したら相当の力を発揮できたのではないかと思う。

これを今までに実行しなかったのは政府の姿勢に有ったのではないかとさえ思う。 上陸用舟艇の利用は太平洋戦争の忌まわしい記憶を国民に抱かせるなどと思ったのではなかろうか。 戦争に使用する手段を平和国家・日本の国民から遠ざけておきたかったのではなかろうか。
我々の身近には戦争のよって開発されたものは多く使用されている。 コンピュータでも、インターネットも、電子レンジも、ロケットも、今問題の原子炉も、あげればきりがない。 このような軍事技術を民需技術に転用することを「スピンオフ」と言い、その逆を「スピンオン」という。 人々を救う上陸用舟艇はなぜ許せないのだろうか。