Blog110508福島原発事故で認識したこと(1)
『原発元設計者が米メディアで告白「原子炉構造に欠陥あり」』
http://www.wa-dan.com/article/2011/03/post-83.php
1986(昭和61)年発行の作家・評論家である内橋克人著『原発への警鐘』は1982年秋から週刊誌『週刊現代』の連載企画に際し、原発の技術、歴史、現場検証に基づいた記事であるので詳しいし、読みやすい。
注:『原発への警鐘』は『日本の原発、どこで間違えたのか』の書名で朝日新聞出版から復刻。
日本での原発の歴史の前篇であり、現在もこの流れの延長である。
「原発」はアメリカでも「未完成技術」を米・CIAのエージェントと揶揄される、時の大物政治家・正力松太郎がアメリカから持ち込んだ「テレビ」とアイゼンハワー大統領が解禁した「原子力平和利用」の商売である。
前者は「日本テレビ」として日本のテレビ産業を生んだ。
時の科学技術長官・中曽根康弘が引き受け、戦前は仁科芳雄の下で軍部命令に従って、サイクロン間で建設した経験のある、長岡半太郎の5男である物理学者・嵯峨根遼吉の知識を仰ぎながら「原子力平和利用」はスタートした。
福島県に付いては現在、民主党の渡辺恒三は「電源立地推進本部」副本部長、事務局長、「電源立地推進小委員会」の委員長、更にそれを支援する「電源立地議員連盟」の幹事長を引き受け、
厚生大臣時代の1984年1月に原子力関係者との会合の席で「原発を作れば作るほど国民は長生きできる。 日本のエネルギー問題の解決は原発だというのが私の政治哲学だ。」と発言している。
「原子力平和利用」が「原子力発電」であり、スタートはアメリカが先輩であり、原発事故でも「スリーマイル島原発事故」で先輩である。 内橋の『原発への警鐘』を読むと、日本の「原発」の歴史は「未完成技術」を交わされた「原発事故」の歴史である。
「原発」は小さな「原子爆弾」現象を連続的に制御して、その熱を利用して水蒸気を発生させ発電させる装置であるために、高温の水蒸気と高温水用のステンレスパイプが特に命である。 「原発事故」によって日本技術の貢献は応力腐食割れ対応の材料解析であろう。 この本は朝日新聞社から4月に復刻された。
内橋の調査はアメリカの原子力発電所従業員の被曝の影響を調査したトーマス・F・マンクーゾ医学博士とのインタビューによる情報も主要テーマである。 被曝後10年、時には30~40年後に訪れる「スロー・デス」、即ち被曝の影響はあとからやってくる。 原発従業員に限らず、福島原発事故でもあてはまることである。
今回の事故で政府の発表している環境や食品の暫定基準はICRPを根拠としているが、ICRP(国際放射線防護委員会)は国連機関ではなく民間の国際学術組織であり、射線防護に関する勧告数値は当初より緩和の方向に移行している。
約30年前から講談社は「原発」に関心が強かったのか、大震災後のメディアの中では週刊誌『週刊現代』の記事に目が止まる。 それは『週刊現代』5月21日号に『電力会社からの「口と止め料 3億円」を断った科学者がいた』である。
その科学者の名は東大博士号を与えられた「高木仁三郎」。2000年に大腸がんで亡くなっている。 享年62歳。 彼は群馬県前橋市出身で東大を卒業後、「日本原子力事業」に入社したが、4年後に退社した。 その後、東大の原子核研究所で博士号を取得した後、1969年から東京都立大学の助教授になった。 1973年に都立大を辞めた後は産学官の「原子力ムラ」に対抗する「反原発のシンボル」であった。
海外の科学者と連携して、「国際プルトニウム会議」を開たり、MOX燃料に関する国際研究にもかかわったという。 国内では「原子力資料情報室」代表や「高木学校」で市民科学者養成のため一般市民向けの講座も開いたという。
原子力に関する業界紙の編集長兼発行人が訪問し、「今の原子力べったりのエネルギー政策では駄目だ。 電力会社や通産省内部の若手にもそう思っている人がいる。 そういう人を集めるから、あなたが研究会を主宰できないか。
私はX社のY会長と親しいから、とりあえず3億円をすぐにでも用意してもらった(略)。」
勿論、断ったとのことである。
3億円は現在では100億円相当だという。 高木仁三郎は電力会社を中心とした原発推進したい産業界が、口封じを狙ったのは間違いないと思い、その人には合わず電話で断わったという。
高木氏はY会長を「財界のリベラル派」と語っていたという。
高木仁三郎と著書は『市民科学者として生きる』『プルトニュウムの恐怖』など30冊ほどある。
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