住所は「京都市東山区三条大橋東詰南側」とある。 鴨川を挟んで三条通りの脇に京都御所を向いて平伏している銅像である。
1747年、上州の新田郡(現群馬県太田市)に生まれた彦九郎は13歳で『太平記』を読み、祖先が南朝方につながることを知り感激し、以来、熱心な皇室の崇拝者になったという。
この銅像は18歳の時、中山道(草津宿、大津宿は東海道と重複)を辿って三条大橋にたどり着いた彦九郎は、感極まって皇居の方角に向かって平伏したという。 この銅像はそのイメージをモデルにして、1928年に製作されたが、太平洋戦争のために回収され、1961年に個人の寄贈により制作されたという。 台座の「高山彦九郎正之」の文字は東郷平八郎元帥、傍らに建つ石碑の文字は徳富蘇峰のものだと言う。
18歳の彦九郎のイメージだと言うが、いかめしい顔かたちは30才以上に見える。
高山彦九郎は林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人と言われ、前野良沢・大槻玄沢・林子平・上杉鷹山・広瀬淡窓など多くの人々と交友していた人物であり、また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物だそうである。
彦九郎は京都を四回訪れているが、彼の熱心な勤皇心は公卿の岩倉家を介して光格天皇の拝謁に結び付いた。
京都から四国、九州と西南雄藩に朝廷の権威復権の旅を続けた。 それから数十年後の吉田松陰はじめ、幕末の多くの「勤王志士」に多大の影響を与えた人物であると言われているそうである。
16155年(慶長20年)、徳川幕府主導で天皇・公家間で取り交わされた『禁中並公家諸法度』は明治維新に至るまで、徳川幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定した。 即ち、約260年間、天皇家と公家は徳川幕府の許可なくして、現在の「京都御所」なる敷地から域外への外出はまかりならなかったのである。
そんな理由で、三条大橋側の「高山彦九郎」の銅像の話に結び付くが、今では観光上でどんな存在価値が有るのであろうか、写真を撮っている人など見たことが無い。
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