2011年2月28日月曜日

金閣寺と住職・有馬頼底


blog110228 金閣寺と住職・有馬頼底

2月の京都は一年で一番観光客が少ない。 冷え込むと底冷えのする京都となる。 しかし、今年の2月下旬の京都は桜の花こそないが、3月末の気候だった。 2月は観光客が少ないため、静寂の京都を味わうことが出来る。
しかし、金閣寺は2月といえども観光客が良く集まる寺である。 最近の高校生の修学旅行は京都に着くとクラス単位というより、三々五々の行動が多い。 やはり、一般客より中高校の制服姿の修学旅行生が多い。

10日ほど前のテレビや新聞紙上で「金閣・銀閣住職、申告漏れ」が報じられていた。 今週は各週刊誌で取り上げられている。 掛け軸や茶道具などに書いた書(しょ)であるという。 良く知られているように、宗教団体は非課税である。 但し、今回は売上金を寺の会計に入れず、個人収入としていたが、税務申告していなかったという。 2009年までの3年間で2億円の申告漏れで有ると言う。 しかし、20年前から申告していなかったというが、2006年までの物件は不問のようだ。

その人物の名前は「有馬頼底(らいてい)」である。 京都御所の北側、同志社大学の東側に構える相国寺と金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)の3寺の住職を兼ねる臨済宗相国寺派管長である。 過去に京都仏教会理事長も務めたことも有る名僧である。 
一族には競馬の「有馬記念」で有名な元農林大臣で日本中央競馬会第2代理事長であった有馬頼寧(よりやす)や直木賞作家である有馬頼義がいる。 そもそも、有馬家は旧筑後国久留米藩主の有馬家である。
兵庫県有馬市はこの有馬家に由来するそうである。

「有馬頼底は」は2003年に日本経済新聞社の「私の履歴書」で1カ月間連載されている。 小学校1年生の時に家庭の事情で大分県日田市の岳林寺に小僧として家族から断絶して、人生のスタートに就いた。 その後の苦難に打ち勝ち、京都五山の第2位に列せられる相国寺管長までになったのであるから、今回の様な氏の経歴を汚すような行為はしてほしくなかった。
2003年の「私の履歴書」で彼のファーンになって以来、京都へ旅行するたびに相国寺の境内を散策するのを常としていた。 金閣寺や銀閣寺と異なり、秋の観光シーズンですら境内に見える観光客はまばらである。 
相国寺の塔頭である瑞春院(ずいしゅんいん)は水上勉の「雁の寺」で有名でもある。
 確かに、金閣寺や銀閣寺は素晴らしい建築物である。 本来なら寺社仏閣は建築物として
 対象ではなく、宗教上の対象であったはずである。 しかし、現在では宗教上の対象とし
 の訪問者は限定的と思う。
「有馬頼底」がこんな不祥事を行わなかったら、有馬頼底の生い立ちなどを生徒に教えてか
 金閣寺や銀閣寺見物をさせてほしかったところである。

有馬頼底が小僧に出された日田市の岳林寺へ行ってみたいと思っていたが、最近は忘れていた。 
日田市はそれ以外でも幕末の「勤王の志士」の出現にも少なからずの影響を与えた広瀬淡窓が設立した私塾である咸宜園(かんぎえん)がある。 是非行ってみたいところである。 今回のニュースに接して、旅行でもしてみようかと思うこのごろである。

2011年2月26日土曜日

京都・三条 高山彦九郎の銅像


NHKの大河ドラマの影響なのか、歴史作家の幕末・維新物の相乗効果なのか知らぬが、日本人の幕末・維新の歴史物の興味は尽きぬらしい。 歴史研究家・一坂太郎著『幕末歴史散歩 京阪神編』なるハンディな本が中公新書から出ている。 その本の巻頭に登場するのが「高山彦九郎」である。 写真も掲載されている。
住所は「京都市東山区三条大橋東詰南側」とある。 鴨川を挟んで三条通りの脇に京都御所を向いて平伏している銅像である。 

1747年、上州の新田郡(現群馬県太田市)に生まれた彦九郎は13歳で『太平記』を読み、祖先が南朝方につながることを知り感激し、以来、熱心な皇室の崇拝者になったという。
この銅像は18歳の時、中山道(草津宿、大津宿は東海道と重複)を辿って三条大橋にたどり着いた彦九郎は、感極まって皇居の方角に向かって平伏したという。 この銅像はそのイメージをモデルにして、1928年に製作されたが、太平洋戦争のために回収され、1961年に個人の寄贈により制作されたという。 台座の「高山彦九郎正之」の文字は東郷平八郎元帥、傍らに建つ石碑の文字は徳富蘇峰のものだと言う。

18歳の彦九郎のイメージだと言うが、いかめしい顔かたちは30才以上に見える。
高山彦九郎は林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人と言われ、前野良沢・大槻玄沢・林子平・上杉鷹山・広瀬淡窓など多くの人々と交友していた人物であり、また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物だそうである。
彦九郎は京都を四回訪れているが、彼の熱心な勤皇心は公卿の岩倉家を介して光格天皇の拝謁に結び付いた。 
京都から四国、九州と西南雄藩に朝廷の権威復権の旅を続けた。 それから数十年後の吉田松陰はじめ、幕末の多くの「勤王志士」に多大の影響を与えた人物であると言われているそうである。

16155年(慶長20年)、徳川幕府主導で天皇・公家間で取り交わされた『禁中並公家諸法度』は明治維新に至るまで、徳川幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定した。 即ち、約260年間、天皇家と公家は徳川幕府の許可なくして、現在の「京都御所」なる敷地から域外への外出はまかりならなかったのである。

そんな理由で、三条大橋側の「高山彦九郎」の銅像の話に結び付くが、今では観光上でどんな存在価値が有るのであろうか、写真を撮っている人など見たことが無い。

2011年2月21日月曜日

日本はもう少しEU化出来ないのか?



blog110221 日本ももう少しEU化出来ないのか?

日本の民主党はやっとのことで政権の座に就いたのであるが、今となっては自民党から政権を獲得したというより、自民党の弱体化という過程に乗じて政権の座に着いたと考えた方が自然な様気がる。
最近、民主党首脳部の小沢一郎議員の処置、そして彼の支持者達の行動には凄まじいものがある。 
国民新党の亀井静香議員が民主党の現状を評して、「連合赤軍を思い出す」といったというが、内ゲバ状況はうまい喩えだなと思った。
現在は、アメリカもどこの国でも似たようなものでは有るが、民主党とそれに対する自民党と野党連合との関係もそれに近い状況のようにも思われる。

今年の1月より3月まで久留米大学の児玉昌己教授による『EU・ヨーロッパ統合の政治史』というNHKのラジオ講座が続いている。 30分間で12回である。
どなたも御存じでは有るが、ヨーロッパの歴史もまさに「戦争の歴史」である。 ヨーロッパを舞台で戦われた戦争で、17世紀の30年戦争、18世紀後半の普仏戦争や20世紀の第一次・第二次大戦も隣国同士のドイツとフランスは将に主戦場であった。 
流石に歴史から学習したのであろう、第二次大戦後の壊滅的に破壊した独仏は固く手を握って、今日に至っている。
1950年の欧州防衛共同体(EDC)の提唱に始まり、翌年にフランス、西ドイツ、イタリアとベネルクス3カ国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)の6カ国によって欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)条約が調印された。 アメリカ合衆国の人口が約32千万人であることと比較したらその組織の大きさが理解できる。
目的は市場統合であり、「規模の拡大」のため、域内の関税を撤廃し、「ヨーロッパ人としての一体感の育成」を目指したという。 最終到達点は「ヨーロッパ合衆国」だった。
1957年3月のローマ条約で欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EAEC)が創設された。 1957年ローマ条約で欧州共同体(EEC)が創設された。 しかし、その前途には多くの難問があった。 
加盟国内で働く労働者の職場が関税撤廃などで将来の展望がどうなるかという心配。 ドイツ社会民主党(SPD)とドイツ最大の労働連盟(DGB)及びイタリア共産党やフランス共産党の存在。 
他方は国家主義、その最たるものは1958年6月にフランスのドゴールが首相となり、更に、翌年1月に大統領になってから、国家主権がEECという国際統合組織に移譲することに対する大きな抵抗。 ドゴール大統領はEEC自体について、超国家的、連邦主義的プログラムに強い不満を持っていた。 すなわち、加盟国の主権国家としの意思よりも、EECの統合組織の方に大きい権威が有ることに絶えられなかった。 1965年は将に、「EECの危機」もあった。
サッチャーが1979年にイギリスの首相となると、当時、農業労働者の少ないイギリスは農業政策に70%を支出するEEC予算ではイギリスの分担金は過重であるとして、分担金の返還要求を主張した。
このような大きい苦難を乗り越えて、今日のEUに至っている。
2010年末時点で加盟27カ国、人口5億人であり、各国家の主権に替わって経済通貨、外交や共同防衛を担当する。
この間、1985年からの欧州委員会の委員長にフランスのジャック・ドロールが選出されたが、彼は「ミスター・ヨーロッパ」としてヨーロッパの統合史に残る人物だそうである。
その委員長選出に際し、本来なら委員長の選出は18年ぶりにドイツの順番であったという。 当時のEC内でのドイツ経済の強さとイギリスのサッチャー首相の対抗意識を考慮して、委員長選出に際して、ドイツのヘルムート・コール首相は委員長として、フランスのドロールを支持したという。 国益より、欧州の統合を選んだそうである。 コール元首相の了見の深さは素晴らしい。
日本の政治家も少しはこのような、腹の太いところを見せてもらいたいものである。
サブプライム・ローン破たん以降のEUの課題とPIIGS(ポルトガリア、イタリア、アイスランド、ギリシャ、スペイン)の問題、特に昨年のギリシャ、アイルランドの財政危機は大きな問題である。 しかし、軌道修正すればよい。
第二次世界大戦後60年で戦争の無いヨーロッパを構築した知恵と貢献は大いに評価してよいのではだろうか。 第一次大戦と第二次大戦の間は約30年である。 この2度の大戦による人災と経済的、文化的、精神的損失などと比較したら、今回の経済危機の損失など小さいものであろう。 これからの授業料と考えることもできる。 EU構築過程の平和による収穫は実に大きいと思うし、過去に無かったことである。 


2011年2月19日土曜日

サルコジ大統領の挑戦 通貨制度改革


前回はサルコジ大統領に世界的な食料価格高騰抑制に夢を託したが、もう一つ大問題に挑戦してもらいたいと思う。 それは通貨制度について辣腕を振るって欲しいと期待したい。 
まったく専門外の人間であるが、70年生きてきて、現在の世界の通貨体制はおかしいと思う。
サルコジ大統領はG20の今年の議長である。 来春はフランスの大統領選挙がある。 そればかりでなく、真剣に考えて行動しているのであろう。 
今年の2月18,19日にパリでの財務相・中央銀行総裁会議に先駆けて昨年、G20,すなわち20カ国・地域の各国で通貨を担当したOB等に依頼し、「通貨制度改革」レポートを求めたという。
国債通貨基金(IMF)のカムトシュ元専務理事を中心に、米国のボルガー連邦準備制度理事会(FRB)元議長、日本の国際通貨研究所理事長の行天豊雄や中国の現職の人民銀行副総裁などが昨秋から議論を重ねた報告書に基づいて、サルコジ大統領は試案を作成して、今回の会議に臨んだという。
フランスとしての背景はドゴール大統領が1944年のブレトン・ウッズ協定以来のアメリカ・ドルが基軸通貨になっていることに異を唱えてはいたのだそうだ。 
IMF(国際通貨基金)や通称の世界銀行(IBRD・国際復興開発銀行)はアメリカ・ドルをベースとして、世界一の金保有量を背景に、アメリカの通貨である米ドルを固定為替相場制を介して、間接的に金と結び付く形で、金本位制としたのである。
即ち、第二次世界大戦による破滅的に破壊したヨーロッパ、アジアと日本の復興はアメリカが引き受けるという大変有難い思いやりではあったのであろう。
廃墟と化したに近かった国家、西ドイツや日本が貧窮の中で努力と貯蓄を重ねた。 相対的にアメリカの旧式な設備と生産方式では当時の復興国(西ドイツと日本)の発展に押され、立ち行かなくなると、1971年にニクソン大統領は金の兌換性を廃止した、いわゆる「ニクソン・ショック」である。 




日本に関しては今まで1ドル360円であったのが、307円となり、1973年から変動為替制に移行すると、たちまち1ドルが200円を割り、一時的には180円にもなったが、200円から250円の間をを変動していた。
ニクソン・ショックから15年後の1985年、「プラザ合意」で一気に120円という円高にまで進んだ。 さらに10年後の1995年4月には一時的ではあるが1ドル79円75銭を記録している。
サブプライムローンの破綻で、アメリカの連邦準備銀行(FRB)が多額の資金を市場に放出すると1ドル80円まで円高にならなかった。世界の金融だけでなく、政治でもアメリカ中心では世界をコントロール出来ない時代に突入したのであるから、基軸通貨をドルから解放してしかるべきであると思う。
日本の2010年の17兆ドルであるから、もしこのような現象がなかったら、経常収支は25.5兆円である。 輸出と輸入では立場は相反するであろうが、輸出立国日本の輸出額は2倍であったろうし、GDPももっと増加していたかもしれない。 
アメリカという国家貨幣が基軸通貨となっていることが大きく影響しているのではなかろうか。
金本位制度なら、このようなことはないはずだ。 しかし、金ではその希少性によって、現在から未来への展望としてはダイナミックに増殖する世界経済の血液としては貧血状態を露呈するであろう。 ただし、金本位体制時の金価格は1919年に世界の金融王と言われたロスチャイルド5家によってロンドンに設立された金取引所(LME)に於いて、ロスチャイルドで価格設定されていたというから、問題なしではなかったであろう。
まして、先進国の経済はBRICs(ブラジル、ロシア、中国、インド)のみならず、そのほかのG20の国々の活況に支えられているのが現状である。
貨幣制度も上記BRICsなどの意見を取り入れたものとせざるを得ないであろう。
ユーロ諸国は今回のギリシャやアイルランドなどの国家危機で大きな問題を抱えてしまったが、ユーロに至る1951年の欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)発足から60年で今日の「ユーロ」を築くことが出来た。 ユーロ機構構築のドイツと並んで2本柱であるフランスには新しい通貨制度改革を行うノウハウと経験が蓄積されていると思う。 
サルコジ大統領はそのフランスの統率者のである。 多いに底力を発揮してほしいと思う。

2011年2月17日木曜日

グローバルな食料高騰とサルコジ大統領


チュニジアに始まった民衆騒動は、エジプトに伝播してムバラク大統領の辞任で大きな山に差し掛かった。 抑圧されていた民衆のエネルギーはリビア、イランを巻き込み、更にヨルダン、イエメンやバーレーンへと飛び火している。 
数十年に及ぶ独裁による国民への抑圧に加えて、特に失業率の上昇、特に出生率の上昇も伴い25才以下の若者の失業率は20%以上であり、チュニジアは30%を超えているという。 
その状況下で消費者物価は上昇し、特に食糧価格が急騰している。 食糧価格の上昇は今やグローバルである。 
アジア地域では米が主食であり、現在の米価格は比較的安定しているようだが、それ以外の国々は小麦粉が主食であり、小麦価格は昨年より20%を超えて上昇しているという。 
従ってアフリカ北部や中東の騒動は止むに止まれぬ行動であると思われる。 トウモロコシやその他の食品は20%以上値上がりしている。
かつて日本の1960年や70年安保条約反対闘争などと異なり、上記の闘争は政党(野党)主導による労働組合や学生を主体とした闘争と形態が異なっているようである。 学生や学校を卒業したが就職できない若者達が携帯電話やインターネットを媒体として動員しているらしい。 
独裁化では弱体な野党、認可されなかった政治集団、イスラーム教などの宗教団体が個々に参集しているのだそうだ。
食糧価格の急激な高騰の背景には世界的な異常気象が大きく影響していることが主因であろう。
昨年のロシアその他の干ばつ、オーストラリアの水害やハリケーンなど。 経済的な新興国の経済的大発展に伴う需要増などが要因のようだ。 
サブプライムローンの破綻に起因する世界的金融危機以後、主にアメリカや欧州の莫大な財政出動。 アメリカやイギリスなどは金融破綻以前に流通していた通貨の2~3倍の通貨を市場に流出させているのだという。 自分たちの国内で吸収できる投資部門が少ないため、新興国や金利の高い国へ、更に金、石油や食糧などへ多量な資金が流出されているのだという。 
廻り回ればそれらの経済システムの拠点を把握しているアメリカやイギリスの資本所有者(企業)が利益を得ることになっているらしい。 うまくできているものだと感心した次第である。
今年のG20の議長国はフランスであり、サルコジ大統領が議長だという。 フランス大統領の任期は2012年5月15日までである。 サルコジは次期大統領の席を狙っているのは勿論であろう。 
それだけではないだろうが、サルコジ大統領は今月の18日からパリで開かれるG20財務相・中央銀行総裁会議で食料価格安定対策に取り組み、6月にはパリで農林大臣会合を開催し、価格抑制策を協議するという。 
成功を祈るとともに、フランスのためとか大統領へ再選などという目標にとどめず、是非世界の人々のために最大の努力を傾注して頂きたいものと期待したい。 
成果が大きければフランス大統領でなく、世界の人々が「世界大統領」に推薦してくれるであろうと思う。 
サルコジ大統領の尊敬する一人がイタリアのベルルスコーニ首相であるという。 決して彼の尊敬出来ないような行為を真似しないで欲しいものである。

2011年2月16日水曜日

サルコジによるパリの治安激変


1984年から3年間ほど当時の西ドイツに駐在したので、パリなどへも旅行はしやすかった。 それ以前にも出張でパリへ行ったこともあったから、パリはアットホームな家族旅行が出来た。
当時の西ドイツは「治安」という言葉を意識することなど気付かないくらい治安が良かった。 従って、ヨーロッパのどこへ旅行するにも治安は安全だった。 若き頃のニューヨークのハーレムの治安の悪さとは雲泥の差だった。
しかし、ヨーロッパにいた時でもイタリア、特にローマは治安が悪かった。 西ドイツ駐在家族がローマへ旅行して、時に被害に会うと話はすぐに拡大して、駐在員社会を駆け巡る。 したがって、ローマへ旅行するときは注意した。 しかし、ローマ市のメインストリートのはずれで家族4人が男女8人位の不良中学生仲間に取り巻かれそうになったことは有ったが、うまく難を逃れた経験はあった。
退職後の2004年の春、6人のグループでヨーロッパ旅行をした。 旅行社の添乗員からもパリ市内の治安の悪さは何度も聞かされ、繰り返し注意されていた。
早春のうららかな陽光のパリ市内散歩に出かけてすぐに、地下鉄の乗り換えのエスカレータを昇降中に集団すりに遭遇した。 被害は私だけで、少額の金品だったので不幸中の幸いだった。 犯人は2~3人のグループで人種は中東系と思われる風貌であった。 プロレスラーのように体格は我々の2倍ほどもある。 手際とスピードは実に良く訓練されていたと思う。 実行部隊の両親達と思われる老人達と小さな子供達を含む15人ほどのグループや3人のニセ警官からなっていた。 組織とシステムが素晴らしい。 あっぱれである。 後になって思うと、抵抗したら出血はまぬかれない状況だったと思った。
その後、パリの中心部のオペラ座やルーブル美術館近辺などの人通りの多いメイン通りを6人で散策していても、タクシー待合場所でも変な風貌な2~3人の男達に付きまとわれた。 実に不愉快な観光都市パリだった。 1985年頃のパリと大きな変貌である。
2004年より3年半ほど後に懲りもせず、パリへ出かけた。 知人Cがパリに駐在して、治安は非常に良いから是非いらっしゃいと言うので、その知人も赴任して半年たったので、フランス語にも、パリの土地にも少しは慣れてきたと思ったので、出かけることにした。 3年前のことでもあったので注意はしていた。
パリの市内を歩いて、治安の良さに驚いた。 信じられなかった。 3年前は何だったのかと思った。 知人家族と市内を散策しても、連れ合いと二人で市内のどこをふらついても治安の悪さを感じることはなかった。
知人達に2004年のいやな経験を話しても、半年前に赴任してそのような治安の悪さは聞いていないという。
現在のサルコジ大統領が2005年5月に内務大臣に就任して、辣腕をふるい、各種犯罪を排除したという。 先の事件は思い出したくもなかったが、日本の国内へもサルコジ内務大臣の辣腕の情報は時には流れてきてはいた。 その都度、あまりにもドラスティックな手段は反発に打ち消されるのではないかとさえ何度も思った。 しかし、サルコジは犯罪グループを力で抑えつけたのである。 警察力の強化などにコストは費やしたであろうが、パリへの観光客も増加して税収も増加したであろう。 それは1994年からのニューヨークのジュリアーニ元市長と同じような政策と効果であろうと思った。 パリ、いやフランスでもサルコジという一人のトップによって社会の激変を垣間見ることが出来た。 これも『目からウロコ』である。 つい、日本と比較してします。

2011年2月15日火曜日

ジュリアーニ元市長によるニューヨークの治安激変

                                      
1968年(昭和43年)年末、初めてアメリカへ出張したとき、日本商社の駐在員Tがウィークエンドにニューヨーク市にあるマンハッタン中央部に位置するセントラルパークの北に連なるハーレム地区をドライブによって車中より見学させてくれた。 12月の中旬であるから乗用車の窓は当然閉めているが、運転している商社員はなるべく「黒人」と目を合わせないで欲しいと言った。目が合って、交差点など赤信号で一時停車などで、犯罪に結びつくことが有る場合があるという。 それほどに治安の悪い地区であった。 当時は「黒人」と言ったが、今は「アフリカ系アメリカ人」という。
退職後、いまから3年前にニューヨークを訪問した時、公共バスでマンハッタンの中央部からハーレム地区を車窓から見学し、マンハッタンの北端の終点まで乗車し、一時間後に同じコースをたどってホテルへ戻った。 しかし、何の不安もなかった。 ハーレムも明るく、綺麗になったと思った。 
それから2年後の昨年、またニューヨークへ言って、同じコースをトライした。 環境は改善こそすれ、悪化するものはなかった。
雑誌などで、情報を把握していたが、確かだった。 1968年からニューヨーク市は民主党の市長が長かったが、1994年から2001年まで共和党のルドルフ・ジュリアーニが市長としてニューヨーク市の治安向上に貢献した功績は非常に大きいという。 頂上作戦としてのイタリアンマフィアの撲滅から、街筋に警官の数を増やし、特にハーレム地区の治安は画期的に向上したという。 
お陰で、治安向上で観光客の増加に伴うニューヨーク市の税収増は年間10億ドル以上であるそうだ。
現在ではニューヨーク市はアメリカで一番治安のよい都市であるといわれているそうである。
私は40年前のアメリカと比較して、非常に安全度の高いニューヨークの観光を楽しむことが出来た。
 人間一人の指揮統率によって、行政という「ソフト」がこれほど変化するのかという体験を垣間見て『目からウロコ』である。 つい、日本と比較してしまう。

2011年2月14日月曜日

視覚障害者のGHQ研究者


昨年末に知人Kから一冊の本を借用した。 積んである本が多かったので、なかなかその本に取り掛かれなかった。 著者はその知人の恩師であり、友人と最近お会いしたという。
私は約15年ほど前から寝る時に枕元のラジオのスイッチを入れて寝る。 NHKの「深夜便」を聞いていると自然と眠りに入る。 夜中にトイレに起きてチョット眠れないときも、ラジオを聞いているといつの間にか眠りにつける。 知人にお会いする半月ほど前の「深夜便」の早朝4時からの番組でその人の話を聞いた。 それもあって、知人Kとの話は盛りあがった。
その本は竹前栄治著の『失明を超えて 拡がる世界』である。 著者は1930年に長野県に生れた。 東京教育大学を卒業している。 ハワイ大学へ留学した折にGHQに関する資料に接し、指導教官の適切なご指導とGHQに関係する分野の研究者や元GHQ関係者などに紹介された。 本人の旺盛な研究心などによって、日本におけるGHQ関係の研究の嚆矢である。 新憲法制定を初め、GHQによる戦後の諸制度の制定を再確認するには竹前栄治氏の多くの著書に詳しく記されていると思われる。 多くの著書を表している。
竹前氏は「M資金」に関する資料と下山事件、三鷹事件、松川事件の真相に関わる資料は見いだせなかったという。
ハワイ大学への留学中、視力に暗雲が立ち込めたらしいが、50歳直前に殆ど失明してしまったという。
それ以降、盲導犬や多くの協力者に支えられて研究は続けられ、今日に至っているそうであるが、GHQの研究という分野のみならず、視覚障害者の先頭に立って、視覚障害者の環境改善に尽くされた功績にも素晴らしいものがある。 世界的にみても、各種障害者に理解の乏しい日本の一分野に、その突破口を切り開いた功績は大きい。
私など両目を開いていても、やっとパソコンと悪戦苦闘している。 竹前氏は視覚不全という状況でありながら、音声入力や音声も立ち上げなどの技術を克服してパソコンを操っていらっしゃる。
視覚障害と闘いながらのGHQ関係の研究と視覚障害者の環境改善の努力を知って、今まで重く立てこめていた厚い雨雲が少し明るくなったような気分となった。

70才のつぶやき



70を過ぎたこの年になって、ブログを始めます。 日本も、世界のどの国も厚い雨雲に覆われたように重苦しい感じが強い。 日常に感じたことを、ここに書き留めておきたい。

昨年は一年半がかりで、ホームページを年末に立ち上げることが出来ました。自己投資で一番やり甲斐が有りました。 魚住しょうじ著『ホームページ簡単作成マニュアル』(中公PC新書)の最終章に「ホームページ作りは自分のための癒し行為」と有りますが、世界的に閉塞感の鬱積した昨今に於いて、自分だけこれで良いのかと、達成感を味わい、著者の言葉をいま実感しています。
まさに、「ホームページヒーリング(healing=癒やし)」と思いました。

「ホームページ」のURLは下記です。
http://uranohhh.main.jp/

今回はまた違った意味で「癒し」を求めて、ブログを始めてみました。